27歳、シティの舞

はツアーパフォーマンスということで、私は青山霊園などに行って、既に言語化された歴史を教えてもらうのだろうと思っていたがそうではなかった。

作品とは関係ないが、帰り道の横断歩道で、奇妙な横向きの歩き方で口をモグモグさせているお婆さんがいて、後ろ姿を見ていると、長袖をかなり上まで捲った。

私は先月広島に行きました。普通観光となると、何か歴史的な出来事があった場所で解説を読み、今ここにはない、かつてあった大事な何かに思いを馳せる、というのが王道だが、シティの舞に関しては、コンクリートの何かの痕跡なら痕跡をそのまま見ていた印象がある。これは何でしょう、調べましたが結局分かりませんでした、とか、(目隠しをしているので)あそこまで連れて行ってください、と言われてそこに着くと(目ぼしい何かがあるわけでもなく)ではあそこまで行きましょう、などと言って進んでいた。胡乱な言い方をしてしまうと、歴史が立ち上がらない(つまりほぼいつもの)風景を見るというか。

そして、ネズミの糞が落ちていますと言われる辺りでの雨垂れの跡?とされる土の盛り上がりの線や、建造物の連続する断層など、その意味を発見したという主張もされていたが、本当なのだろうかと寧ろ思った。最初私はchatGPTに都度聞いたりしていた、がそれより、とにかくその辺りに長期間いた結果見つけたものなのだろうという、そちらの肉体側からの感じられ方を思った。

そうした独自研究的な着目には、救われないものの救われなさへの接近、吸着、接触、果ては同化の途上を感じさせる、かなりグッとくる(喉の詰まりのような)ものがある。岩下拓海さんがナチュラルにそのような存在である、とまでは思わなかった(27歳だから)。単に私がそうなだけかもしれない。しかし「かつてこの辺りに変な人が滞在と称してずっといて…」と誰かのツアーパフォーマンスの題材の側と寧ろなる勢いの片鱗があるように思った。

260524 Dead weight to the large rim

先日自分は上演を行い、感想を欲しがって、送付いただいたものを下記に掲載させていただいているが、自分も見た作品の感想をこれまで全然書いていなかったのは良くないよなと思った。ないよりましと信じて、これからはなるべく書きたい。

https://tinyurl.com/ah0leafter

自分に関しては大罵倒でもいい。唾を吐くようなそれでもいい。「この人の勝ち筋は一体何なのか」は、勿論いい。ありがとうございます。そのように考えて座っていた人がいたのだと知ることが、私にとっての現実のピースを補完してくれるから…

私は作品とは人格ではない枠組みとしてあると考えており、後者は勝手に意味付けて論評したりしてはならないが、前者はしていい。むしろそのためにこそあるのではないのかと思っているから…

(作品について、私は「丸ごとバナナ」を誰でも知っていると思っていたが、そうでもないらしかった。)

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それで先日イベントGTSに行き、その中でDead weight to the large rimを見た。加賀田玲・立石草太の作劇に基本的に共感を抱く。勤め人の二元論的な倫理みたいなものがあると思う。つまり詩と労働が分離されていて、分離されたまましかし両方扱わねばならないと思っているのだと思う。さようならハムバムもそうだった。詩が語られるが、それは物語の設定の中に慎重に括弧に包まれて置かれている(つまり学生の論文中の筆の迸りとして・またペン自体の販売のための試し書きのためとして(?うろ覚え)相対化されながら)。それゆえに水槽の中のベタ(熱帯魚)のように輝いているというかよく聞こえてくる。普通にいいなと思う。それはその発話を担う加賀田氏の訥々と区切る語り方や(負け)顔芸にも拠っていると思う。敗北を前提とし、それを味わう詩という意味でブルース的なというか。

他方、詩は水槽の中の魚みたいなものでしかないのかというと、もう一つマンションポエム的なものが出てきていた。学生が働いている胡散臭いサービスの宣伝文句として。それは情報資本主義の末端として愚かしい労働をやらされていると捉えることもできるが、学生の演劇にまつわる詩と重ねられていったので、あの卵の価値はある程度本当に信じられていたのかもしれない。或いは、値を付けて売る側、力を行使する、人を巻き込む、騙す側、言ってみれば加害者側、責任主体たることをどのように引き受けることができるのか、という問題意識があり、それは私も考えなければならないと思っています。

つまり三層があった。水槽の中の詩と、規律的労働(厳密な論文の形式)と、力の行使と。で、水谷先生がその中心で引き裂かれていた。

で、イベントGTSが終わった後、その前日の自分の上演について知人の方から慰め半分にここがよかった、ここがよかったと指折り数えて言っていただいたその指がなんと美しいのかと思った、それは結局、私を褒めてくれているからだった。

横田創 埋葬

を読んだのですが、

・「睡眠薬を飲ませての無理心中」とはあり得なさそうだけど裁判でどのように認定されたのだろうか
・裁判で(元)少年はどのような手段で河口湖に(二人を遺棄または殺害しに)行ったとされたのだろうか

といった外面的なことから、

・高史は悦子から(元)少年のことをどの程度知らされたのか
 (「妻に告白されて(文庫版P80)」「あたしが全部話しても(169)」「わたしの背中をわたしは眺めていた(21)」)
・なぜ高史は詩織の出生を役所に届け出なかったのか
・詩織を殺したのは悦子か(元)少年か
 (「自分の娘を殺すなんてことまでさせやがって(168)」「息などしていなかった(179)」)
・なぜ十年経って高史は取材を始めたのか
 (「法廷に一度も来ないから、何かあると思った(166)」)

とか、色々謎がある。私が読み取れなかっただけかもしれないけど、一方パズルみたいにすべてが整合する解釈を見つけても仕方ないのだろうと思うのは、この小説には、「内容と形式(96)」・私と他者・質問と回答・土曜と木曜、等々のあらゆるペアが「互いが互いに存在を与え合い奪い合う(96)」ことで存在している、という原理が根底に据えられているために、言葉とそれが指し示す事実も一意に定まらなくて当然と思えるからだ。

その結果として異様なイメージが導き出されたりする。特に変なのは、談合坂サービスエリアで死んだ(?)「妻と娘を抱えて(84)」持ち運びし、長椅子に置いた(?)妻が「膝を抱えたままテーブルのへり首だけで寄りかかっていた(75)」というところなどだ。「なにをしてるんですか?(75)」

 

この小説は「1」と「2」から構成されていて、「1」は主に高史の手記(と悦子の関係者へのインタビュー)で、「2」は(元)少年へのインタビューだった。

キャリア官僚である高史と中卒のアルバイトである(元)少年の二人は、「感覚飽和(©綾屋紗月)」的な性質により自他の境界を乗り越えがちな悦子を蝶番として背中合わせに邂逅していた。

悦子と反対に、境界を越えないことを性質としていた(「全部知ってて言わないだけだって(169)」)高史は、心中未遂の4日後の木曜・2000年の手記・2010年のインタビューと、そのことの(遅ればせの)修正を試み続けているようでもある。(「わたしはいま、わたしがいまあなたに求めていることを身をもって実践しているのです。(44)」)

「2」の2010年のインタビューにおける(元)少年の語りは、拘禁反応なのか空想・類推と実際に起こったことの区別が付き難くなっている。言葉が他者性を失っている。つまり(彼にとって「すべてと言える唯一のものだった(176)」)悦子が既に死んでおり、高史もろくに応答しないために、(元)少年が一方的に語る内容は、悦子と何を話したかということから、非現実的な「二重生活(164)」まで、読んでいる私は本当にあったことなのか分からなくなる。彼が悦子に最後何と言ったのか、という話題において高史はやっと初めて高史として(元)少年に向かい合うのだが、(元)少年はそれもすぐに翻してしまう(「嘘、言ってない(171)」)。

そんな中(元)少年は「この本」を自分と高史の「共著に」することを求めている(142,167)。高史はやはり応えないわけだが、結果としての「この本」には(元)少年の名前はどこにも書かれず、「1」と「2」がただ並んでいる。

これをもって高史は死刑の確定を待つ(元)少年に存在を与え得たと言えるのか、または彼の行為は(過去の試みと併せて)すべて手遅れなのか、よく分からないが、とにかく両者は分かち難く結びついて存在をしている。

250329声を渡す

私の印象だと、Oはアンテナみたいな受け手で、Nは空洞みたいな受け手だ(と自分でも書いている)。媒質の違いが人によってなぜかある。

Oは受信が同時に発信になっているように動いていた。何をしていると見ている私は思っていたのか。表現というわけではない、でも映画を観ていてあのように動きはしない(と思う)から、単なる受信でもなく、空間を撹拌して自分か他者が動くことを促しているのかもしれない。それを見て私も何をということではなく促される。

Nはそれで言えば(映画を観ているかのように)体の緊張感は見えず腕を垂らしたりしていた。私の位置からは顔が見えなかったが、記録ノートを読むにアンドロイドのように無表情で、その上(傍から見たら突然)泣いていたりしたのかもしれず、それはそれで良いのではないかと思う。

自閉症の哲学という本の注に、幼児はまず他者の同一性を認識し、その次に他者の他者として自己を認識すると確か書いてあった。

他者に自我という錯覚を読み込むこと少なく育ったのだろうか(会場にお父様がいたらしい)。視界の焦点の広さをデフォルトとして持っている。「他人の気持ちが分からない」と「他人の痛みを自分の痛みとして感じすぎる」の両立を、「自他境界の曖昧さ」と捉え、自己の全面化と捉えているらしい。

だがそんなことを言ったら俺の方が全然他者と出会えておらず、更にそれを何とも思っていない。他者の体に自我を読み込み因として置くことで他者がそこにいると思うことはまあ定型的な処理の仕方だ。

空洞であることは依代たる良い条件ともいえ、その自我の遍く薄さがNの語りに引き込む力を与えているのかもしれない。川や光がよく見えた。

記憶のいい加減な上塗りがかなり起こっているが、後半女性四人の反響する陣形がバラバラになっていって、鳥がどっかに行って、私の集中も散じてどうでもいいことを考えていた気がする。

それで最後、ふと何かよぎるように呟く(「水の中で揺れるのが好きです」)のもよかった。別の回では別の話をしていたのだろうからそれも気になる。