動物とコック

動物 は鼻が長く、地面を嗅ぎながら長い距離を歩いていくのだという。方角を判断するのと、あとそれに一生懸命なふりをして時々草を食べるために。草を食べても誰に怒られるわけでもないが、そうするのが面白いのだそうだ。丸々とした桃色の胴体を紐が一周していて、背中に結び目と、手紙が挟まっている。これを見事送り届けることが期待されている。その後は自由だ。私の視野の狭さでは、今も自由だが、と動物は思った。適宜ふんを後に落としながら、最初の七日間は、結果だけ言えばその周りをずっと回っていた小高い丘の上から、猟師はその姿を見ていた。親戚を思い出した。手紙の届け先としてではなく、動物自体が親戚に似ていた。そもそも猟師は通りかかっただけたった。猟師の親戚は、唐突にハートアタックで亡くなってしまったのだった。温泉に浸かっているときだった。石畳の洗い場で倒れて介抱されている親戚の様子が浮かんだ。だがその姿は湯けむりでよく見えなかった。よく見えるように想像しなおしてみると、親戚は裸で痩せて、陰毛も見えていて、目を閉じて口元は力なく緩んでいた。好きな酒を飲んでいるときの口元にも似ていた。一緒にいた息子がその後の色々を、色々な感情で行ったのだろうが、そこまでは想像しなかった。親戚は川漁師だった。川漁師が20年の経験を8年かけてまとめて自費出版した本を、猟師は彼の死後読んだ。そういえば「酒を飲んでいるときの口元」は、自費出版の際、川漁師の家の二階で行われたパーティー?というほどのものではないが、そのときの赤ら顔、の一部でもあった。そのときに貰った本を、猟師は多少めくっただけで読んでいなかったのだった。猟師はへえと思った。釣りなんて、餌を魚のいるところに垂らしていたら確率的に食い付くものだと思っていたが、そうではなく、例えば鮎が(川漁師は鮎釣りを得意としていた)いそうなスポットに目星を付けたら、まずそこへの近づき方から注意が必要だ、なぜなら、足元の石が転がる音を立てたり、影が川に被さったりすると、魚は驚いて逃げてしまうからだ。そもそも、魚は水の上の我々の世界を見ているらしい。更には、複数あるスポットをどう巡るか、もちろん川上から川下へ下るほうが楽なのであり、と、要するにそもそも山歩きでもある。それから、季節ごとに適した釣り方から、どのようにハリが魚の上顎に引っかかるか、とか、魚からどのように釣り師や毛バリが見えるか、とか、そんな考察が手描きのイラストで微に入り細を穿ち書かれている。で、結論としては、一般的に晴れた夏はイワナ・ヤマメがあまり釣れないが、彼(ペンネーム・渓彦(たにひこ))の手法を総称した「渓彦づり」ならバンバン釣れる、ということだった。本当だろうか。川のある山に行って試してみてもしその通りだったら、暗号を読み解いたみたいで面白いだろうなと猟師は思った。ところで、なぜ猟師なのにこんなレベルのことに感心しているのかというと、見た目の印象から猟師と呼ばれたに過ぎないからで、猟師然とした格好をしているものの、本当はコックだった。それも素材に関心のないコックで、買ってくる素材が元々どんな生き物なのか、考えたことがなかった。想像力のないコックだった。学ぶ気はあった。だから慣れない山まで来て道に迷い、知らない動物に出くわして死んだ親戚を思いだしているのだった。親戚が動物に似ているというのは、子供の頃の親戚にだ。彼らは3つ違いだったが、上下関係という感じもそれほどなくよく一緒にいた。それでもコックは漁師の後を付いて歩いていた自分の記憶というかイメージがある、と言っても子供にそんなに行くべき場所があるわけもなく、同じ岩場の同じルートを何百回と辿ったり、誰にも探されていないのに物陰に隠れたり、葉っぱをちぎって葉脈を見て「これが北斗七星だ」と嘘を言ったり、何百回と同じゲームをして無言でお互いのキャラクターにダメージを与え合ったりした。その、前を歩いていた姿に似ていたのだ。似ていたというか、見ていて思い出したから似ているということになった。だからこそ、あんなに簡単に捕れそうな獲物をただ見ているのだった。コックは動物に近付き、後ろから胴体を手を回して持ち上げた。持つことができた。魚を捕るのと違い、動物を捕るのはこんなに簡単なのかと想像力のないコックは思った。動物は鼻を鳴らしていた。手紙が付いているのだから、家畜なのかもしれない。殺してしまうことは躊躇われた。それに殺したところで、いつも自分が調理している素材の何に、どうすればなるのか見当もつかなかった。コックは手紙を開いた。
「かたな
 こわし
 はてな
 むすか
 旅順 」
全く意味が分からずコックはがっかりした。何かの気づきになったかもしれないのに。コックは動物を裏返した。
「お前、失礼だよ。まあいいけどな。」動物が言った。
「お前、喋れるのか。」コックが言った。
「俺の一族はその腹周りの毛色が白いだろう、それがいいんだ。」動物が言った。
「動物か魚、どっちかを獲りたいんだけど。」コックが言った。
「俺はやめろ。お前には無理だ。今は仮に脱力しているが、サッと動くこともできる。そうすればお前は、なあお前、動物と魚、両方を穫れるやつはいない。どっちかにしろ。どっちかに決めろ。」
「じゃあ、動物にする。」
「何の動物にするんだ?それによって全然違う。」
「お前は何の動物なんだ?」コックは動物がしゃべるたび動く喉のあたりを見ていた。
「そんなことを俺に聞くな。」と動物が言った。
「俺はコックなんだが、俺の作る料理は最終的に全部茶色になってしまうから人気がないし、俺も嫌だと思う。素材の段階では彩り豊かなのに。もっと素材を活かしたいんだ。」
「俺を置けよ。」動物が言った。
「俺はイェルサレムに行く。俺の友達。お前は自分が無いんだからついて来いよ。近くだからそんなにはかからない。」
コックが動物を置くと、動物はサッと走っていなくなった。コックは一人になった。
指の間に紙切れがあった。さっきの手紙だ。コックは歩き出した。かたな こわし はてな むすか。子供が書いたように下手くそな字だった。もしかしたら内容は重要でなく、例えば好きなひらがなを書いただけで、それを親戚のおばあさんとかに見せたいだけかもしれない。旅順は名前かもしれない。旅に従うなんていい名前だ。もちろん地名かもしれない。地名とすると、城壁の前で兵士が積み重なっている絵が思い浮かぶ。世界史の教科書で見たのだと思うが。でもあの絵自体は日露戦争の絵だったと思う。そういえば私の祖父は旅順にいた。昭和13年のことだ。コックはipadで撮った軍歴の紙切れの写真を見ている。旅順で歩兵一等兵から上等兵になって「8月29日 教育終了 旅順出発」とある。のらくろみたいだ。やはり、先輩というか古参兵の股の下をくぐらされたりしたのだろうか。股の下をくぐらされたのはのらくろではない。丸山真男だ。のらくろの布張りの10巻のマンガ本も祖父があるときくれた。当時の子供が読んでいたのだから、股の下をくぐらされたりするわけがない。だが最後の方で戦争をする相手は卑怯な性格の豚で、何何アルという喋り方をしていた。祖父は関東軍だったので、詳しい工程を知りたいのだが、市ヶ谷の資料閲覧室は平日昼間しか開いておらず、コックは平日働いているので行くことができない。今日は休日だ。祖父が戦争について語っていたときは、(やはり)酒を飲んで赤ら顔で、機関銃の射手を交代した人が死んだとか、金日成の軍隊と戦ったとか、そうしたことを青春の思い出的なトーンで語っていた。誰でも自分について語りたいことを語り、語りたくないことは語らないものだとは思うが。
コックは丘を降り、草原を抜けテントに戻った。そして料金を払う。一朝一夕で猟師になるのは無理だ。気分を味わっただけで良しとしよう。コックは自分の仕事のことを考えた。

彼女には母がいた。そのことを思った。ある身動きの取れなさを感じていた。彼女は変化の途中にあったからだ。小指と薬指が硬直してしまい、それを惨めに感じる。それ自体がではなく、そのいびつさを自分と感じてしまうことに、変わりたいと思いつつ変えられないことに惨めさを感じていた。さらにその惨めさを嗜癖とすらしているのかもしれなかった。過去は復讐する、という。なぜ行動を変えることができないのか。ずっとそれをしてきたからだ。まず他人の目もある。お前ずっとそんな態度じゃなかったじゃないか、なんだ今さら、と言われるんじゃないかと思ってしまう、そうした考えが巻き爪のように食い込んでしまうのだった。
分かってるがやめられない。だから他者が必要だ。教師ではなく教師役が必要だ。教師だと思っていると思うと腹が立ってしまう。これもやめられない。人形みたいなやつでいい。
するとドアが開き、喫茶イェルサレムに男が入ってきた。男は部屋の隅のミニブタの所に行き、「おお」と言った。ブタはブーブー言った。
「すみません、軽く道に迷ってしまったのですが…」男が言った。
「何と何にしますか?」女が言った。
「じゃあ、オムライスとジンジャーエールで…」男が言った。

ミミズ

おれはミミズが好きだ。アスファルトの上で死んでいる姿だけではなかった、あの有機的な姿、気持ち悪いということは生理的だということだ、肛門と口、内臓と皮膚が直結している、あれほど直接的な姿があろうかね。うごめく、そして切っても死なない。どないやねん。地中を駆ける、あの輪っか、腸のような蠕動、生理そのもの、表象と機能、オーガニズム、以前は露悪的に注目していたが、今思ったのはおれはミミズが好きだ、ミミズになりたい、ミミズを目指すべきだ。彼女はカエルが好きだ。カエルも表面がヌルヌルしているという意味では似ている。境界が曖昧だということだ。何かが浸み出している。坂口恭平が土と言ったから、内と外の交通の宇宙に気づいたのだった。思えばおれは拒否していた。バリアを張っていた。エヴァンゲリオン世代だからだ。だが今からはミミズになっていこうと思う。そういえば気持ち悪いが最後のセリフだった。通り過ぎる!ミミズこそ筒であり全てを通過させる。ミミズよ、生きたまま魚の餌とかになってしまう無防備な命よ。そのまま食用になってしまう、鳥とかにとっては殻も何もついてない、踊り食いの生のごちそうに見えるのだろうか。柔らかいし。牙もないし。抵抗という抵抗もしないし。ツルっといける。問題は動くということだ。問題というのはおれにとっての問題で、鳥には問題がない。なぜ動くと気持ち悪いのか。気持ち悪いというのはセンサーとして重要だ、そこに私のATフィールドがあるので。鳥は、口の中で踊っている食物を美味に感じるかもしれない。食感として楽しんでいるかもしれない。人間はイクラを食べるとき食感を楽しむ。形の食感は楽しむ、なぜ動きの食感は楽しめないのか。一部の小さな魚の踊り食いというのはある。例えはセックスは逆で、相手が動く方がいい。反応がある方がいい。ネクロフィリア、反応が無いほうがいいという人もいる。そういう人はそれくらい人間も恐れているのか、あるいは食べることのように、自分が触ることは相手にとってデッドリィに不快で致命的なことだと思っているということだ。暴力行為としてしかセックスを行えないから、すでに死んだ相手を相手にするということだ。私は相手は動いている方がいい。それは相手にとっていいことをしていると思っている、思いたいから、それを確認したいからだ。境界に鳥肌が立つ。おれは相手の快感を想像して脳内麻薬を分泌させる。それで陶然としながら相手の体の表面を指先で触り続けるのだ。もどかしい、だが破裂してはならない。この状態を保つのだ。ここでアキレスの比喩が出てくる。アキレスは亀に追いつかない、それは不幸なことみたいに第三者視点の人々から言われるが、アキレス視点で言えばずっと幸福であるはずだ。目標に近づく一方なのだから。一度も遠ざかりはしない、興奮状態がずっと続いている、ずっと気持ちいいのではないだろうか。ブラックホールに吸い込まれそうな人は地球からは止まって見えるそうだが、星座のようにその気持ちいいままで停止しているのだ。とはいえ、その第三者というのも、光の速度の問題があるから実際にはそんな風に観察するのは難しいわけで、だって光が吸い込まれるのがブラックホールなのだから、その観察者の立場がおかしいということだ。空に貼り付いたアキレス。アキレウス。それを笑う者を信用してはならない。そんなやつはいないのだから。仮定の、本当はそこにいないのに後からいたからのように言う卑怯者なのだから。セックスしているときにそこにいたら問題になるだろう。梅しゃんのように。ともあれ、そう今の問題は、動くものを食べるときに気持ち悪いと思うことについて、気持ち悪いと思うことは共感の拒否、撥ね付けである、相手が動いているのは、その苦痛を想像することが猟奇的であるから、動いているものを食べるのは非人間的とされている。だがおれは、理科の教科書に載っていた、芋虫を食べるカエルの表情をよく覚えている。なんというのか、あの合意済みみたいな顔。相手も了解してますから、みたいな、全く悪びれない動じることのない表情。例えば食べることを悪いと思っていない。だって自分も同じように、あるとき一瞬にして鳥にさらわれて食われるんだから。私が食べている、相手がもがいて動いている、そのことを同じ生命として納得できれば、動いている相手を食うことは可能だ。セックスのように。しかし痛いのではないだろうか。デッドリィに痛い。というかまさに死んでいるところなのだから。死の痛みを、究極的な私の放棄として受け入れるということか。心頭滅却すれば火もまた涼し。予測変換で全文出てきた。織田信長軍に殺された坊さんの死に際の言葉が、Windowsの予測変換にてできた。このように、死はあらゆるところに含まれているというわけだ。何食わぬ顔で取り込まれている。死骸が土に取り込まれるように。リベラルという意味での人間的でない原理によって。それは人間社会の中にも入り込んでいる。気づこうとしていないだけだ。人間の社会も沃野であり、ツイッターなどの上澄みしか人は普段見ていないということだ。何の話だったか、そう相手を食べること。自分も食べられること。自分が食べられる時、痛いと泣き叫ばないだろうか。それとも痛みを観察し続けられるだろうか。私を他者にし、その食物連鎖を直観できれば、その死をこの世界に当然のものと悟り受け入れることができる。こんなことあるよなと。俺ミミズなんだから。このまま生きていて、どんな一生を過ごすということもなし。今までと同じだ。ミミズにはライフサイクルはあるのだろうか。生殖はするのだったか。「多くのミミズ類は雌雄同体である。生殖時期になると、二頭の成体が体を逆方向に向けて環体部分の覆面を接着することにより交接を行い、精子を交換する。」気持ち悪。などと言ってはいけない。生殖はするらしいが、自分と同じものと出会い、増える、「交接後、ミミズは環体の表面に筒状の卵胞を分泌し、これと体の隙間に複数の受精卵を産卵して栄養物質を分泌する。産卵と分泌が完了すると、首輪を脱ぐように卵包を頭部の方向に送りだし、頭部から離脱すると、筒状の卵包の前端と後端が収縮して受精卵と栄養物質を密閉する。」ミミズの卵というのがあるんだな。「名称は「目見えず」からメメズになり、転じてミミズになったとも言われ、西日本にはメメズと呼ぶ地域がある。」ミミズには目がない、これは私にとって重要なことだ。見えないのに生きている。私も同じだ。見えない存在の不気味さ、その独自の世界認識、それが外から見てある種の存在感になる。だがその存在感というのは、アキレスを見る第三者と同じように、遅れているものだ。アキレスは収縮するミミズなのか。前に進むために体の前の方を収縮させ続ける、ばねのように縮みながら進み続ける、永久に爆発への力を溜める、あの定規自体が一本のミミズなのだと言えるかもしれない。第三者もまたミミズである。そちらに向かって伸び続ける、ブラックホールに吸い込まれる人に向かって吸い込まれ続ける、そのことに気づいていないのか?私も今気付いていないのだろうか。気づいていないというのは、自分が客観的な正しい判定者の場所にいると勘違いしているということだ。対象に向かって伸び続けているとき、それが正しいか間違ってるかは気にしない。それは発見であるからだ。ブラックホールに吸い込まれている人を発見した!という興奮によって進んでいるからで、彼は永遠に亀に追いつきはしないだろう、などという興ざめなことは言わない。なぜ追いつかないと分かるのか。それは、追いつかないという結論を元に作った話だからだ。実際は追いつくかもしれない。ずっと見ていたら。とにかくそこに向かう、向かうことが愛だと言っていた人がいたが、その意味はよく分かる。ミミズの伸びだからだ。同じものは止まっている。違うものは分かれている。似ているものは、近づいていく。あるいは、似ていると思われたものは。そこに無限の接近がある。そして接近というとき、それは前方へだけの接近ではない。なぜなら私はミミズだから、ミミズは目がないから、前方という観念もないから。前にあるものだけを書いてはいけない。横にあるものも、後ろにあるものも書かねばならない、そうすれば私は全身が目であり、腫れあがる〇〇〇〇であり、空間を産む。産卵である。ここまでで3443文字。あと557文字書けば10枚ということか。ここまでで一時間半くらいだ。書くことはミミズとなって自分の土を耕し経路を縦横に張り巡らしどこからどこへでも抜ける道を開拓し続けることである。有機的に書くということの意味と効果をようやく知った、坂口恭平のおかけで。何度も同じことをする。毎日。蠕動をヴァイブスとしていきたい。どこにも通じない。自分自身がお通じである。そこは恐山であり、ミミズはお通じ様と言われ畏れ敬われている。そんなことも言っていきたい。今日は5時に起きた。22時半に寝た。夢で素人出演者みたいな感じで舞台に立っていて、妖怪人間ベラみたいな恰好をしていて、カメラに向かって舌を出して、その下は真っ黒にマジックで塗られていて、それで放映しているwowwowについての批判を言って舞台を降りた。舞台を降りると、主催者である踊ってばかりの国の下津さんが、疲れたような顔をして何かコメントをくれた。私はバンドTシャツを買いに来たのだった。今日の睡眠効率は悪かった。だが寝覚めは良かった。雨だしそろそろ仕事に行く準備するか。仕事中にもなるべく無意識を作動させるようにできればいいのだが。ズボンを脱いで事務仕事をするとかだろうか。分からない。考える必要がある。終盤、かなり尻切れトンボになってしまっている。頑張っていきたい。これで4024文字だ。

緑茶と6Pチーズが恐ろしいくらい合う

緑茶と6Pチーズが恐ろしいくらい合う。緑茶を飲んで、それから6Pチーズを食べると、喉の奥で熱い緑茶に6Pチーズが溶け”神の旨味”みたいなものがそこから口中に染み出してくる。私は自分が熱いコーヒーを、舌等で味わうのではなく喉に直当てするように飲んでいることに最近気づいた。味というのは喉で感じるのではないだろうか?舌で味わうというのはそれに比べて皮相な感じがする。ワインのテイスティングの人はペッと吐いてしまうが、あれは何なのだろうか。ところで神の旨味と言ったのは、それが何に似ているかというと、風邪が治ってスッキリした朝の、まだ濃厚な痰か鼻水に似ている。こんな勧め方だとむしろ試す気を無くさせてしまうかもしれない。他人のは気持ち悪い。でも自分のは、何十年と親しんでいる味には違いないでしょう。純粋な塩味。坂口恭平も鼻くそを食べると言っていた。今も緑茶を飲んで6Pチーズを食べてみているが、生理から染み出してくるみたいな味がやはりする、そして、にもかかわらず実際にはそうではないから、自己充足的行為に伴う疾しさを感じることもない。乳ということと関係があるのだろうか?市原佐都子のバッコスの信女をこの前読んだ。男性→女性→牛と虐待の連鎖が起こっているというような構図の話だった。他者の痛みを想像できる人間になりたい。

講座と公演の感想

講座を振り返ってまず思うこととしては、毎回の稽古で、生西さんに自分をまあよく見ていただいた。こんなに人に見てもらったことは大人になってからない。アフタートークで、自分は生西さんに作ってもらったみたいなことを言ったけど、それは動きをつけてもらったというだけでなく、ひたすらに見てもらうということ自体においてだ。あるとき稽古の帰りに、「生西さんは本番緊張しますか?」と聞いたら、「僕が一番緊張します。本番はもう見ることしかできないから。」と断言していて、それほどまでに自分事として見るということをしているのか、と今更ながら驚いた。だがその後、私が公演のフライヤーを3枚しか持ち帰っていなかったことがばれ、それには流石に腹を立てていたようだった。私は謝罪した。(結局どこにも配れなかった。)


講座って毎週何やってたの、と佐々木敦さんも不思議がっていたが、初回から受講生それぞれがやりたいことや興味あることを話し、それから台本なりを用意して、それを全員で順番にやってみる、ということを繰り返していた。そのうちにそれぞれが別々に作品を作ることになったのだが、そうした(多分3人の様子を見ての)方向性の決定や、その後も人を呼ぶだとか、ともすれば怯みがちな受講生の意志に対する生西さんの差配や促しが絶えず働いていた。


3人が別々に作品を作り始めた当初、私は何かちょっと書いてきては、次の週に全部撤回する、ということを繰り返していた、するとある日の帰り地下鉄車内で太田さんが、「これは半分自分に言うんですけどね、なんか、自分がいきなりすごい傑作作れるとか思ってるから何も書けないんですよ、そうじゃなくて、内心どんなにこんなものどうにもならないと思ってても、そんなことは口にも出さないで、義務だとでも何とでも思ってやるしかないんですよ。私はそうしてる、そんなのでもやらないよりは100倍マシだから。それすらしないで今までズルズル生きてきたから、今こんなクソみたいな状況にいるわけじゃないですか、それを変えたいと思ってここに来てるんじゃないんですか、それでやらなかったら、何のために来たんですか?」と叫び、新宿で降りていった。アツいなと私は思った。そんな感じで、それぞれアイデンティティを懸けていた感があった、ように思う。


演劇を人間をやる練習だと思っている、初めて小演劇を見たとき、ウンゲツィーファの転職生だったけど、最も感銘を受けたのは単純に舞台と客席が同じ高さであることだった。だから私は別に俳優でも何でもないけどやっていいのだと思ったし、本番もそのつもりでやった。


以前坂口恭平ツイッターで、僕は本当は僕の本を読んでくれる人にお金払うべきだと思っている、なぜかもらえるからもらっているけど、と言っていて、ちょっと分かるなと思った。稽古を通して、自分の書いたものを人に読んだり、発話したり、動きをつけたり、あと演技とかも観てもらったりする機会に接し、非常なありがたみを感じる。その過程で自分や自分の書いたものが、元の意図とは違う風になっていったりするのだけど、それが人と混ざる面白さなのだと思うようになっていった。


お金が介在する関係は特に、与えるのと受け取るのが一方向的なものと一見見えるが、実際には一方から他方に何かが流れるとき、同時に逆方向にも別の何かが流れているのではないかと思う。その二つの流れをできるだけ見るようにしなければと思う。そうした非対称だが相互的な経済、またはそうして人と人が関わるときに生じる幸福や危険に興味がある。


話を戻すと私は12月くらいまで自分自分、自分がどう感じるかみたいなことばかりこだわっていて、具体的に何も進まず、生西さんと瀧澤さんにはとても我慢していただいた。そのころのメールなどは読み返すだに辛いものがあるが、瀧澤さんが「これは冨田さんにとっての大きなチャンスであるのにな、と私は思います。こんなにたくさんの協力者がいるのにと。ひとりになんていつだってなれるから。」と書いてくださっている、そのひとりに講座が終わって再びなっているわけだけど、次行き会うときに恥ずかしくないようでありたいなと思う。scoolに入ってからの空気は忘れがたく、初作品を発表する場所として、余りにも恵まれた場だったと思います。講座と公演を通して関わることができた皆様、本当にありがとうございました。それから生西さん、本当にお世話になりました。ありがとうございました。